第五話 言葉のないモッコクと最後の仕上げ

電話の声は、静かだった。
荒々しくもなく、泣いてもいない。
ただ、不思議なほど穏やかで、それがかえって胸に引っかかった。
「庭を、全部きれいにしていただけますか。剪定も、草むしりも、砂利のならしも。すべて」
「ご予算のご希望は?」
「……構いません。夫が費用を持つと言っておりますので」
翌朝、指定された住宅地を探すと、すぐに分かった。
三十年近い築年数だろうか。
落ち着いた二階建ての家の前に、よく手入れされた庭があった。
サザンカ、ヤマボウシ、どっしりとしたモッコク。
裏手には低い生垣。
石畳の目地も、砂利も、きちんと手が入っている。
荒れてはいない。
ただ、庭全体に、どこか「やり残し」のような空気があった。
枝の先端が、もう少しだけ整えられるのを待っているような。
砂利が、もう一度だけならされるのを待っているような。
出てきたのは、五十代半ばの女性だった。
落ち着いたグレーのカーディガン。
化粧はうすく、髪は丁寧に束ねられている。
「遠藤と申します。先日お電話した者です」
深々と頭を下げた。
「ご依頼の内容を確認させてください。全体の剪定と、除草、砂利のならし直しですね」
「はい。それと……」
少し間があった。
「モッコクの古い枝を、すっきりさせてほしいんです。夫が長年、自分で整えていた木なので」
私は庭の奥を見た。
樹齢二十年は超えていそうなモッコクが、南向きの陽の中にどっしりと立っている。
樹形の芯はしっかりしていた。
長年、丁寧に手をかけてきた人間の意図が、枝の流れにはっきりと残っている。
ただ、今年の仕上げだけが、されていなかった。
近づいて、幹の根元を確かめた。
モッコクの下の地面に、古い番線が几帳面に束ねて置いてある。
錆びているが、きれいに丸めてある。
使いかけの癒合剤の缶が、蓋をしっかり閉めた状態で脇に置かれている。
最後に使われたのはいつだろう、と思いながら、缶を持ち上げた。
ずっしりと重い。
まだたっぷりと残っていた。
「……ご主人が、ここまでやっていたんですね」
私が独り言のように言うと、女性が小さく「ええ」と答えた。
「道具の片付け方を見ると、分かります。几帳面な方だ」
「言葉より、そういうことのほうが、ずっと丁寧な人なんです」
女性は、それだけ言って、少し目を伏せた。
「今年は、ご自分でやらなかったんですね」
「夫は……この家を出ることになりまして」
「そうですか」
「私が頼んだわけではないのですが、先週、夫から連絡がありました。庭の業者さんに頼んでほしいと。費用は出すからと」
私は黙って聞いた。
「三十年近く、あの木ばかり気にかけて。ちゃんと謝る言葉もないくせに、こういうことだけ……」
そこで女性は口をつぐんだ。
少し笑った。
困ったような、しかし、どこか懐かしいものを見るような顔で。
作業を始めた。
まず三脚を立て、モッコクの内側へ分け入る。
密集した枝葉をかき分けると、木鋏では歯が立たない太さの絡み枝がいくつもある。
腰のサックから鋸(のこ)を抜き、角度を見定めて切り込む。
ザラリとした樹皮の感触。
切り口から青くさい、少し渋みのある匂いが立った。
モッコクは、切るよりも「見透かす」作業だ。
外から見えない懐に光を入れ、風の通り道を作る。
太い枝を一本落とすだけで、木の表情がまるで変わる。
ここを残す、ここは切る。
木の言い分を聞きながら、少しずつ整えていく。
切り落とした太枝の断面には、癒合剤を丁寧に塗り込んだ。
根元に残っていた缶と、同じ銘柄だった。
女性は最初、縁側から見ていた。
しばらくすると、姿が消えた。
一時間ほどして、湯気の立つ茶を持って戻ってきた。
「よろしければ」
三脚から降り、受け取る。
庭を見渡した。
「不思議ですね」
女性がぽつりと言った。
「木が、息をし始めたみたいで」
透かし剪定とはそういうものだ、と私は思ったが、黙って茶をすすった。
「夫とここに越してきたとき、このモッコクはまだ細かったんです。子供の腕くらいの。それが今は……」
「太くなりましたね」
「はい」
女性の目が、木の幹のあたりをゆっくりと動いた。
「あの人、不器用な人で。言葉で説明するのが下手で。でも庭だけは毎年ちゃんとやっていた。冬になると鋸を出して、春になると肥料をやって。子供たちには怒ってばかりだったくせに、木にはそんなふうに……」
風が吹いて、切り落とした枝の匂いが動いた。
女性は目を細めた。
午後になると、生垣に取りかかった。
刈込鋏で面を揃え、乱れていた輪郭を取り戻していく。
サザンカは今の時期に強く切るべきではないが、形の乱れた枝先を軽く揃える程度ならばよい。
刃の音がリズムを刻む。
カシャカシャと、乾いた音が庭に響く。
雑草を根から抜き、石畳の目地を掃き清め、砂利をならす。
砂利は、新しく入れ替えるより、下地をよく均してからレーキで丁寧に引けば、見違えるように白さが戻る。
これを知らない人は多い。
夕方近くになって、全体を見渡した。
朝の庭が、随分と風通しよく、明るくなっている。
女性が縁側から降りて、庭に立った。
ゆっくりと、足元の砂利を踏む。
ジャリ、ジャリと、落ち着いた音が立つ。
モッコクの前で立ち止まった。
伸びかけていた枝が整い、幹の形がはっきりと見えるようになっている。
「……子供たちが小さい頃、この木の下でよく写真を撮っていました」
女性の声は、平静を保っていた。
「背景に映るのが、この木ばかりで。夫ったら、自分で世話している木だから、撮るたびに嬉しそうにして」
「いい木ですよ」
私は本心から言った。
「大事に育てられた木です。幹の形が、真っ直ぐです」
女性は、何も言わなかった。
少しの間、じっと木を見ていた。
片付けを終えて挨拶をすると、女性は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。こんなに……」
そこで声が詰まった。
顔を伏せたまま、続けた。
「こんなに、きれいになるなんて、思っていなかったので」
私は道具箱を持ち直して、軽く会釈をした。
「モッコクは、初夏か秋の入り口に剪定する木です。来年の六月ごろ、また呼んでください」
「……はい」
女性は顔を上げなかった。
しかし、確かに「はい」と言った。
トラックに乗り込んで、バックミラーを見た。
夕暮れの中に、白い砂利と、整えられたモッコクの緑が映っている。
女性の姿は、もうなかった。
エンジンをかけると、庭の光景がゆっくりと遠ざかっていった。

