第三話 頑固オヤジと、夕焼けの松

「機械なんぞ使いやがって! 帰れ帰れ! 塩撒くぞ!」
路地の奥から、怒鳴り声が聞こえてくる。 この町内では有名な「ゲンさん」の家だ。
築五十年の木造平屋。 その門にかかる見事な黒松は、かつては「町内の横綱」と呼ばれていた。
だが、今は見る影もない。
ゲンさんが腰を悪くしてから二年。 手入れされなくなった松は、ボサボサに葉が伸び、まるで落ち武者の頭のようだ。
心配した近所の人が植木屋を紹介しても、バリカン(トリマー)を持った職人を見ると、ゲンさんは烈火のごとく怒って追い返してしまうのだ。
私は、道具箱ひとつを肩に担ぎ、その門をくぐった。
「なんだお前も、俺の松を丸坊主にしに来たのか」
縁側で背中を丸めていたゲンさんが、ギロリと私を睨む。
私は松の幹に近づき、そっと触れた。 分厚い亀甲(きっこう)のような樹皮。松ヤニの匂い。 枝ぶりは荒れているが、骨格は素晴らしい「門被り(もんかぶり)」の形をしている。
「いいえ。……機械は使いませんよ」
「ああん? じゃあどうやって切るんだ」
「松は、ハサミと手で対話するもんでしょう」
私は腰のサックから木鋏を抜き、忌み枝をパチンと落とすと、そのまま素手で伸びすぎた古い葉をむしり取ってみせた。
ゲンさんの目が、少しだけ丸くなった。
「……ほう。手袋もしねえのか」
「松ヤニで真っ黒になりますけどね。指先の感覚がないと、来年の芽を痛めちまう」
私は脚立を立て、スルスルと松の上に登った。
バリカンで丸刈りにしようとした前の業者は、松の恐さを知らないモグリだ。 針葉を途中で切断すれば、切り口から真っ赤に枯れ込んで松が死ぬ。
時間はかかる。 だが、不要な枝をハサミで透かし、古い葉を一本一本手でむしり取る。 これ以外に松の機嫌を直す方法はない。
丸一日がかりの作業も終盤に差し掛かり、西日が傾き始めた頃。 私は、松のてっぺん付近の枝を透かしながら声をかけた。
「ゲンさん、ここからの景色、昔はもっと良かったんでしょうね」
今はマンションばかりが見える。 だが、枝を透かしたことで、松の枝の間を夕風が通り抜けるようになった。
「……昔はな、そこから富士山が見えたんだ」
ゲンさんが、ボソリと言った。
「女房が生きてた頃は、二人で縁側からこの松を見上げてな。 ……『今年も綺麗な緑が出たね』って、笑い合ったもんだ」
機械の音にかき消されていたら、聞こえなかった言葉だ。 静かな手仕事だからこそ、こぼれ落ちる思い出がある。
やがて作業を終えて脚立を降りると、そこには見違えるような「横綱」が戻っていた。
雲のように棚引く枝。幹の曲線美。 夕焼けを背景に、松のシルエットが黒々と、そして誇らしげに浮かび上がっている。
「……茶だ。飲みな」
ゲンさんが、無骨な手つきで湯呑みを差し出した。 その横には、たくあんが二切れ。
「悪かったな。今の職人はみんな、機械でガーッとやるもんだと思ってた」
「機械も便利ですけどね。こいつ(松)は、ゲンさんの相棒だから。 床屋じゃなくて、マッサージが必要だったんですよ」
私が松ヤニで真っ黒になった手のひらを見せると、ゲンさんは「ふん」と鼻を鳴らし、少しだけ口角を上げた。
「また来いよ。……茶くらいなら、出してやるからよ」
帰り道、振り返ると、スッキリとした松の枝の下で、ゲンさんが夜空を見上げていた。
その背中は、来た時よりも少し大きく見えた。

